「夫婦は赤の他人ではない」といわれる。他人行儀ではない、愛情の通い合う関係といえば、耳に心地よい。利害で割り切られず、いわば無償の愛で迎えられるとすれば、何も悪いことはないように見える。しかし赤の他人ではない、愛があるのが夫婦の関係であるべきだと考える人は、愛を与えると同時に、(あるいはその前に)当然のこととして配偶者の愛を求めるものである。「夫には愛がないんです」身の上相談で私のもとを訪れたある女性はそういって、夫の悪口を並べ立てた。「私かどんなに疲れたといっても、彼は足ひとつもんでくれないんです」「君は彼が君の足をもむべきだと思うの?」「だって私の父は、私が疲れて帰るといつも足をもんでくれていたから」夫は私が疲れたときには、父がそうしたように私の足をもむべきである。なぜなら夫は他人ではない、身内だから、とその女性はいうのである。夫婦は赤の他人ではないと考える人は、往々にして配偶者を父親代わり、母親代わりにするものである。母親に甘えて育った男の子は、大人になり、結婚したとき、自分の妻にも母親のように甘えることになる。父親離れできない妻は、自分の夫に父親を求めるのである。だが、母親や父親を求められることが続くと、配偶者もそうそう応じてはいられない。「私はあなたのお母さんじゃない」、「俺は君の父親じゃない」と声を上げたくなるだろう。父親、母親に対する感情を配偶者に向けること、それがそもそもの間違いなのだ。夫婦は身内であるが、もともとは赤の他人であるという意識をお互いにもったほうがいい、そのほうが夫婦関係はうまくいくということだ。
[参考]
ALSOKの結婚式電報
http://alsok-denpo.com/shop/e/e10000006/
同じ父母の代理を求めるのでも、過剰な愛を受けたためでなく、親からの愛が少なかったために配偶者に甘えたがる例もある。たとえばしつけが厳しく、やさしい顔、なぐさめの表情をほとんど見せてくれない両親に反発して、高校卒業とともに家を出てしまった娘は、結婚相手に深い愛情を注ぎ、甘えようとするものである。父母に求めて得られなかったものを赤の他人に求めるわけである。人なつっこさの中には、そういう心理に由来している場合が少なくない。前の例では配偶者の愛は父母を超えられないのに対して、こちらは、自分の親より配偶者のほうが好きだと思う。こうしたタイプの人に対して、カウンセリングでは、修正感情体験といって疑似的な親子を演じる方法がある。週に一度カウンセリングを受けに行くと、すべてのカウンセラーが自分の親のように、「よく来だね」、「たいへんだったね」などと声をかける。たとえば幼少時に親から怒られるばかりで受け入れてもらえなかった人が、カウンセラーに親にしてほしかったことをしてもらって、親子関係をやり直すことによって治療を進めるという方法である。アメリカには夫婦関係にくたびれはてた人が集まって疑似ファミリーを演じ、気がねなく交わり合うことで家族体験のやり直しなどを試みるエンカウンターグループがある。似たようなグループは日本にも出てきている。たとえ他人同士であっても、親子のように無償の愛を注ぎ合える夫婦がいるとしたら理想的かもしれない。しかし、現実にはそれはあり得ないと思う。妊娠して十か月もの間胎内に宿し、苦しみながら出産し、おしめを換え、お乳を飲ませた体験の有無は決定的な差なのである。